佐賀県北部の山間に、古湯という温泉郷がある。

昭和七年に父はその地で生まれた。村は嘉瀬川と貝野川の二本の渓流に沿って広がっており、放課後になるとそこで遊ぶのが当時の子供らの日課だったという。やがて地元の高校を卒業すると、父は東京で働くようになる。時代はまさに高度経済成長の入り口だった。右肩上がりの社会の中で、父も朝から晩まで働く「モーレツ社員」だったのを幼心に思い出す。

そんな父が他界したのは平成二十七年のことだ。

あれは余命数ヶ月と宣言された父を車の助手席に乗せ、丸の内のオフィス街を走っていたときのことだった。目の前に立ち並ぶ壁のようなビル群を眺めながら、この大都市を父たちは築き上げてきたのだなぁ、という感慨がふっと胸の底から湧いてきた。あの渓流の響きに包まれた美しい村を遠く離れて‥。

 

いまは廃校になってしまったけれど、古湯温泉の小学校の教室の窓越しに、父はこの都市風景を夢想することができただろうか。青々と折り重なる山並みの向こうに、どのような幸せの形をあの頃思い描いていたのだろうか。そして時は流れ、今は彼の孫にあたるぼくの子供たちが、毎夏その渓流で遊ぶようになった。東京で暮らす子供らの目に、祖父の故郷はどのように映っているのだろうか。水しぶきを上げてはしゃぐ笑顔の向こうに、どんな未来を彼らは夢見ているのだろうか。

 

父と子供たち。それぞれが思い描く幸せの形の向こうに、ぼくらの来し方行く末をもう一度問い直してみたい。

一昨年、古湯温泉郷で好評を博した写真展を再構成し、新版「父の渓流で」を開催致します。

 

小池英文

開催概要

スケジュール
2019-10-04〜2019-10-13

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プロフィール

小池英文

【略歴】 小池英文 写真家 1964年東京都生まれ。 都立高校を一年間休学し米・カリフォルニア州に渡る。現地公立高校を卒業後、アメリカ全土を旅する。大学卒業後は海外取材を繰り返し、写真と記事を多くの新聞や雑誌に発表。近年は国内にも目を向け、2017年に写真集「瀬戸内家族」(冬青社)を刊行。同作で林忠彦賞最終候補にノミネートされる。また現在同名のフォトエッセイを産経新聞に毎週連載中。